95%が50代、60代、70代、でたまに20代の二人組が歩いているくらい。
全員が老人の記念写真。
日本もここまで高齢化してしまったのか。拡大して見て貰えばわかるが全員が50代以上だ。
私が若者だった頃 旧軽銀座は若者であふれていた。その時20代だった人達が50代になって戻ってきたのだろうか?
よく見ると昔からあるような店は オーナーも60代の老人だ。
2030年の新宿、渋谷の月曜の街並みも多分こうなってしまうのだろう。
ここは巣鴨地蔵通り商店街ではない。
試食に群がる老人群。
若者が来なくなって昼の12時から全く人のいない教会通りへ抜ける商店街。
チャーチストリートの文字が空しい。
それでは 軽井沢にはまったく若い世代がいないのか?
実は軽井沢で唯一 年齢層が若いところがある。
軽井沢駅の南側に広がるアウトレットショッピングモールの軽井沢・プリンスショッピングプラザだ。
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レイクニュータウンの情報を追加します。
ここからは1970年代の今は無き、南軽井沢レイクニュータウンレマン湖の思い出。
赤軍派立てこもり事件で有名なあさま山荘もあったレマン湖の回りには三越のショップがあり レストランとブティックが建ち並び休日は辺りの駐車場はみな一杯になっていた。
1970年代 南軽井沢の観光拠点はこのレイクニュータウンのレマン湖と少し西側の塩沢湖だった。
ところが現在のレマン湖の回りのブティックはたった一件を除き閉店していた。
軽井沢レイクガーデンという 有料バラ園(ローズガーデン)になっていたがお客は全く居なかった。
http://www.karuizawa-lakegarden.jp/menu-1.htm
そういえば観光ガイドにも載っていなくなっていた。
閉鎖になっていたブティック群 2008年6月
1970年代、上の写真の反対側、レマン湖側(左)で右は若い女の子が喜びそうなブティックが並んでいた。後ろに見えるのが三越のお城風の建物。
1973年の夏、今はもうない。
レマン湖の東岸のレストラン2階よりレマン湖北側のブティックを望む。青い屋根はブルーシャトー?(右上の円錐の屋根とブルーの屋根)1975年。
今回それらしい残骸があった。
あの頃軽井沢に来るたびにレイクニュータウンのレマン湖を訪れていた。あの当時にはレマン湖の今の惨状を夢想だにしなかった。
時の流れとは、、、絶句
レマン湖の地図 星のマークは撮影場所 1枚目は現代 2枚目は1973年夏、3枚目は1975年撮影
あさま山荘は3枚目の撮影場所の南の山の山腹にあった。当時は修復されて山荘の建物はまだあったように思う。
当時は山口百恵のペンション?または店?がTVにも盛んにとりあげられていたが今はどうなっているのだろう?
毎年夏になると旧軽銀座とならんで原宿のようなにぎわいとして必ずニュースや番組で紹介されていた。
まあ、地元山梨の放送局なら今でも取り上げるのだろうか?
今思うと、あの当たりから日本の社会の構造が高齢化を含めいろんな意味で変化してきていたのだろう。
昔観た光景と雰囲気が違い、感じた驚きが伝わります。それでも それでも 新緑の季節、爽やかで気持良い時間を過ごせたのではナイカト・・・想像しています。
この写真はその翌日の6月の初めの月曜でした。
妻はプリンスのアウトレットモール、私は20代の頃何度も来ていた昔の思い出を辿りながらカメラをぶら下げ旧軽銀座の散策でした。
今から30年前はレマン湖があるレイクニュータウンは旧軽銀座に次いで人の集まる所だったが
今はお店の廃墟しかなかった。
まったく同じ想いがございます。
あの頃はよかったぁ〜・・・という時代の軽井沢に何十回も行っておりました。
今となっては寂しい限りです。
レイクニュータウン・・・懐かしいです。
ブルー・シャトーにも宿泊した事もあります。
レマン湖に浮かぶ手漕ぎボート、足こぎボートのぶつかり合う音、明確に覚えております。
このような軽井沢の懐かし話がしたいです。
メール、お待ちしております。
昔の軽井沢はホントに良かった噺。
共感です。
1970年ころからレークニュータウンに実家や親戚の別荘があり、夏には2〜3週間軽井沢で過ごしていました。今は手放し、家だけは残っているようですが…。
お写真の1970年代中ごろ。一番レークニュータウンが盛り上がったときではないでしょうか。こういう昔の軽井沢写真が見たくて、パソコンを弄っていました。うれしいです。
お店はもちろん、花火大会や、ゴリラの着ぐるみを着たドライバーが運転したアマンドのオープンバス、時々、ウォーとかほえていませんでしたか?レマン湖に白鳥も居ましたよね。小学校の夏の宿題で、幸せに暮らしていた7羽の白鳥が、湖の花火大会の火の粉がかかり、1羽が死んでしまう…という、絵本を書きました。うんうん。
もう少し前の時代は、レークニュータウンの中州は、赤鳥居でした。ボートは当時30分500円だったような…。
あと、お城の裏にプールがありました。
真水ですごく冷たく、よく唇が紫色になっていました。
旧軽銀座には、当時らくやき屋さんが何軒かあって、軽井沢に行ったら毎年、仮面ライダーや新幹線、ペン立て等の色塗りをしましたが、それも無くなり、「その中の父親がやっていた店がこれです。」とアウトレットに一軒だけ移り残っていましたが、それも今は無いようです。
普通にパンを買っていた旧軽の浅野屋は10年前遊びに行ったとき大混雑で、知らずに店員さんに「すみませ〜ん」と注文しようとしたら、前に居た、いかにも軽井沢観光っぽい綺麗な人に、鬼のような顔で睨み殺され、もう来たくない…と、悲しく寂しく思いました。
いつごろから軽井沢が変わったかって…。
色々な見方、感じ方があると思いますが私は、小学校5年生(78年か79年かな)の担任の先生への残暑見舞いのはがきに、オートバイで来る人がいっぱい居る、軽井沢が変わっていく…と綴った覚えがあります。
買い物はTURUYAは時々で、シンゴでした。
シンゴももう無いみたいですね。
だらだら、すみません。
私も、懐かしい、良き日の軽井沢噺がしたかったので、つい…。ベルコモンズも…。あー。
記憶をたどるきっかけを作っていただきありがとうございました。
昔のお写真、色もファッションも、凄くイイです!
以前に一度、掲示板に書き込みをさせて頂いた事があるのですが、「古き良き時代の軽井沢」についてお聴きしたい事があるのですが・・・。
御手隙の時で構いませんのでメールを頂けると幸いです。
よろしくお願い致します。